ふるさとの話  その2

ふるさとの、記憶に残る想い出が 余りにたくさんありすぎて、何から先に書くべきか

迷うけれども、先ず 私が幼かった当時の村の様子から思い出してみたい。

 

村の中を2本の川が流れていて、川を堺に 新村、中村、上村と別れ、この3つで  一つの集落となっている。

私の家は、中村の真ん中辺りにある。

 

メインの道路が1本あり、両側に家々があった。港はぐるりと小さな

湾になっていて小舟が数隻、岸につないであったり 浜に引き上げてあったりする。

集落と浜の間には台風時の大波よけに、横幅2メートル程の護岸が 村全体を守るよう

に設けてあった。現在は、もっと大規模に高さも増やし 寄りかかって海を眺められる

ような、エル字型の立派なコンクリートの護岸へと生まれ変わっている。

 

私はたまに帰省した時には、先ず真っ先にこの護岸へ行き、真冬であろうと夏のカンカ

ン照りであろうと、ここでしばらく港を眺めて 昔の臭いのようなものを感じようと 試みる。

それだけで、懐かしさやうれしさで胸がいっぱいになる。

港の様子は少し様変わりしてしまったけれど。

 

昔、祖父や父や親戚の男たちの主な仕事は漁師で、私の記憶にしっかり残っているの

は、てんま舟から溢れるほどの イカやきびなご、とび魚などを積んで港に帰って来て

いた事だ。

漁の季節でそれぞれ違ったと思うが、とにかくイカだけが船いっぱい、きびなごだけが

船いっぱい、だったと記憶している。昔はおそらく 魚達も沢山いたのだろう。

 

帰ってきたばかりの、魚を積んだままの舟を、両側からみんなで一緒に掛け声を上げな

がら、海から浜へと引き揚げる。舟の下に小さい丸太を2~3か所入れて押すと、少な

い力でも良く動く。いつもながらのその様子は皆が生き生きとして、いつも心躍るもの

だった。

 

集落からは 海が 目と鼻の先だから、子供たちもそんな時は我先にと浜へと駆け降りる。

そして、家々に魚を持ち帰り、イカの場合は家族総出で開いて内臓を取り除き、竹製の

串を2本使って イカの身を平たく伸ばし竹竿につるし干しにする。幾日か干したら形

を綺麗に揃えて10尾を一束にして括り、市場か何処かに出していたと思う。      

 

きびなごは先ず一升マスを使って、何升あるかを 確かめる。これはいつも祖母の仕事

で「ひとひとひとひと、ふたふたふたふた、みいみいみいみい、」ときびなごをマスで

すくいながら 数えていた祖母の声が今も聞こえるような気がする。

そのきびなごは、塩干しにして売りに出すか、一部は生のまんま、その日のうちに何処

かに売りに行き現金収入となっていたはずだ。

 

あのころは、お肉などめったに食べられるものでは無かったが、代わりに魚だけは

毎日飽きるほど食べさせられた。今思えば贅沢な。

現金収入が少なかった頃だが、野菜や米麦、さつま芋にじゃが芋なども自作してたから  

食べるものに困ることは無かったと思う。

 

けれどやはり、現金が必要なことはどうしてもあるわけで     

細かく言えば塩に砂糖、味噌やしょうゆなどは店で買うことになる。我が家では        

大きなカメつぼに味噌が手作りしてあった。

 

病院や法事、子供らの教育費、町に行く用事が有ればバス代その他諸々。

楽な暮らしではなかったと思う。あの頃は戦後の復興期で

大体みんなが同じ様な質素な暮らしぶりだったが、小さな村でも、活気があった。

そして、誰もが優しい気持ちを分け合っていた様な気がする。

 

今になって思えば

おそらくあの頃、村の皆が助け合って暮らしていたのではないだろうか。

 

 

 

故郷の港から 初日の出を拝む   太平洋から昇ってくる初日