ふるさとの話  その3

男たちの仕事

記憶の中では、私が物心ついた頃には 祖父や父をはじめ村の男たちは、主に

漁師をしていたと思う。海が荒れない日は、てんま舟を漕ぎだして 漁に向かう。

そう、その頃の村の舟は、手漕ぎの櫓をこいで動かす小舟であった。

 

余程ひまの時、子供らもてんま舟に乗せてもらう事もあった。 

その時に櫓の漕ぎ方を 大人が教えてくれるのだが、なかなか上手くいかない    1本の櫓を船尾にある突起に差し込んで 立ってこぐので、なかなかのコツが要る。

歌にある「村の渡しの船頭さんは ことし六十のおじいさん~♪」で思い浮かぶ

あのスタイルだ。今の若い人達はこんな歌 聞いたことも無いかなあ。

 

それでも兄や弟は流石に男の子で、いつの頃からかできるようになっていた。

私は練習量が少なかった為か、不器用な為か、いっこうに舟が前に進まないので、諦めてしまったが。

 

海が荒れて漁に出られない日には、祖父たちは漁網の破れを繕ったり、稲わらで

わらぞうりを作ったりと なかなか忙しそうだった。

漁網の繕いは無理だったが、わら草履は見よう見まねで 子供の私でも作れた。

記憶の中に作り方がまだ残っているので、作れと言われれば今でも作れるはずだ。

わら草履は磯辺に行くときは必需品で、海岸などの岩海苔が生えている場所でも

これを履いてれば滑らない。

 

村の男たちの中には、二隻の大きいパルプ船に乗って働く大人達もいた。

パルプ船を所有していたのも村人で、その内一人は母の兄 つまり伯父さんで

伯父さんの船の乗組員は親戚だけだったと思う。

私の父も 後にこのパルプ船の乗組員になった。

 

パルプ船は材木を積んで、鹿児島市宮崎市、遠くは瀬戸内海まで行くと

聞いた事がある。

船が村に帰って来る時には、何かとお土産が楽しみで待ち遠しいものだった。

 

          桜の頃 人吉に住む友人に会いに行き                               町はずれにある「蔵カフェ」から 球磨川を臨む。  沈む夕日が美しい