昭和のあの頃 初めてテレビを観た日の話

 

昭和34年4月、当時の皇太子であった明仁親王と正田美智子さんの御結婚の

模様がテレビで放映されるとかで、私の村でも数日前からニュースが流れていた。

テレビはまだどこの家にもなかったが、

ラジオは割と普及していたので、皆が知っているおめでたい話題だったのだろう。

 

 

今は上皇后となられた当時の美智子様は、初の平民からの皇室入りという事でも話題に

なって、まるで昭和のシンデレラ物語のようだった。

 

昭和34年と言えば私はまだ小学4年生の頃だと思うが、その頃村にはまだ何処にも

テレビは無かった。隣の村にも無かった。

もう一つ向こうの村にたった1軒だけ、最近テレビが付いたとかで、みんなでそこの家

で見せて貰うことになり、結局は学校区内の3つの村から大勢の人が集まった。

 

私も、二つ違いの従妹と二人でてくてく歩いて行った。その時誰かが写真を撮って

くれたのだろう、峠の道の脇に従妹とお揃いのスカートを着て座って写っている写真

があったのだが、その写真はいつの頃か紛失したままになっていて、ざんねんな思いが

している。貴重な写真だったのに、数多い引っ越しのせいで行方不明のままである。

 

さて二つ隣の村に着いて、目的のお家が見えたと思ったら、そこは黒山の人だかりで

近寄ってみると、開け放たれた窓という窓も縁側も玄関も人でぎゅうぎゅう状態。

人の頭越しに背伸びしてみても、テレビの姿は見えても、映像がハッキリ見えない。

小さい女の子二人は、人垣の後ろで背伸びをしたりウロチョロするばかりだった。

結局は放映された内容も見えずじまい、わからずじまいで帰る事になったのだった。

 

帰るときの残念な気持ちなどは全く覚えていないが、あれも懐かしい思い出である。

 

それよりずっと後の私が高校生の頃、皇太子御夫妻が公用で鹿児島市に来られることが

あった。お車が通る道順が前もってわかっていたので、そこの一隅の陣列の後ろで

私もお待ち申し上げた。(使い慣れない言葉は苦手です)

お車が近付くと周りの人々が騒然となるので緊張してしまったが、お車がゆっくりと

走っているので、皇太子殿下と皇太子妃美智子様のお顔をしっかりと拝見する事が

出来た。

妃殿下が、お車のこちら側に座って手を振っておられた。

こんなに美しい女性を初めて私はお見かけしたので、感動してしまった。

透き通るような白いお肌。優し気な微笑み。雰囲気が透明感にあふれていた。

ほんの一瞬だったけど、あのお姿は今でも記憶にそのまま残っている。

 

上皇上皇后両陛下はご結婚以来およそ60年の間、国民の象徴としての務めを果た

された。気の休まる事は無かったやも知れぬ。

今は静かに穏やかにお過ごしのご様子をテレビなどで拝見する。

どうかいつまでもお元気で、と一国民として心からお祈りせずにはおられない。

 

 

 

 1昨年の春 あるカフェの芝生の庭で    桜吹雪が舞ったあとに

 

 

 





 

 

 

 

 

 

 

 

今日は パソコン教室の日

2月8日(木曜日)晴れ 気温13℃

今日は2週間ぶりにパソコン教室へ行った。今日で7回目の教室通いです。

素晴らしく天気が良くて、久しぶりに来た中央駅付近だが、行きかう人々も

今の季節にしては、コートがやや薄手な気がする。

空を見上げると、ほうきではいたような薄雲が少々浮かぶ。空の青さが目立っている。

ポカポカ陽気なので、心も弾む。

 

その心とは裏腹に、最近右ひざの調子が悪く颯爽と歩けないのが残念。

私の前を歩く女性がやや小走りになり、そして教室の階段を駆け足で登って行った。

ああ、もう10時になる、私も駆け出したいけどあの若い彼女のようには走れない。

せめて早歩きでも出来ればいいが、膝がこの調子では無理な感じ。

 

仕方ないね、悪あがきはやめとこう。2階の教室まで手摺を伝ってたどり着く。

声だけ元気に 「おはようございます!」

 

今日も質問を幾つも考えて来たので、先生に教わって、スッキリして帰りました。

しかしながら、又いくつかは忘れちまうのでしょうね。先生ごめんなさい。

 

帰りのバスまで結構時間があったので、天気も良いことだし、ちょいと道草して

いきますかね。大した道草では無くて、見慣れた街の写真を撮ったりお店をチョット

のぞいたり、そんな程度で今日は帰ろうっと。

無理すると膝に来ます故にお大事にしてくださいませ。

 

ライオンズ公園の大久保利通像をスマホで撮ろうと見上げたら、像の頭上がなんか違和感。

ンン?大久保様は帽子を被っておいでたかな?おかしいなと思いつつ横の方に回ったら

大久保様の頭上から、2羽の鳩が飛び立って行った。君たち、そんなところで休憩してたの?

私の後ろでキャリーバッグを引いた旅人らしき2人の若い男性が、やはり同じく像を見

上げてスマホで撮影中だった。何処からいらした旅のお方。

 

旅行か~ いいなぁ   私も今年はきっと旅行するぞ、と思っているから

その為にも、早く膝を何とかしないと。

 

 

今日の鹿児島中央駅前の様子  天気が素晴らしかったので観覧車に乗りたかった

 

 

 

 

昭和のあの頃 故郷では

悲しい事もあったけれど

これまでブログに書いた記事は、主に心に残る楽しかった事などが多いけれども、

もちろん誰にもあるように、私にだって嫌な思い出もあり、忘れることができずに

心の奥の記憶の中にしまい込んでいる。

 

傷ついた事も、脳裏に刷り込まれ映像として残り、時々何かの折に思いだして

しまう事がある。

嫌な思い出は、記憶から消し去ってしまいたいけれど、心の傷として残る為か

むしろ楽しかった思い出よりも、強く深く突き刺さっているので始末がわるい。

 

楽しかった良い想い出だけを抱えて、一生を終える事など誰にも出来ないのかも知れない。

 

生きていく中で起きる悲しみ苦しみ憤り、それらを悩んで暗く生きるのか、いやな記憶

にフタをして前を向いて生きるのか。

 

受けた傷の度合いにもよると思うけれど、自分がどんなに苦しかろうと悲しかろうと

自分以外の人にとっては、取るに足りない事かもしれないと思ったりする。

 

そうは言っても、記憶のフタが開くときもあり、そんな時は一瞬でも嫌な記憶が

頭をもたげる。

 

それでも有難い事に、歳がいってくると

物事に動じなくなってきたと言うか、楽観的になったと言うか、図太くなったと言うか

ある程度のことはケセラセラと思えるようになって来た。

何事もなるようにしかならない。

 

そう思うと、歳をとることも案外悪くなくて、若い頃よりいくらか心軽く

生きられるような気がする。

 

 

 

 

 白いクレマチスも控えめで美しい

 

 

 

昭和のあの頃 故郷では  

夏の海での 記憶

 

三歳か四歳ごろだったと思っているが、生まれて初めて海で泳げるようになった時の

事が、フラッシュバックのようにして浮かんでくる。こんな事を人様が聞いたら、

そんな幼い頃の事を憶えているなんて噓みたいと思われるかもしれない。

だが自分を信じて言えば、あれは嬉しさのあまり記憶に残っている本当の事だ。

 

私が生まれたのは昭和でも戦後の復興期の頃である。

生まれた場所が農業と漁業両方ができる土地柄で、食べる事には全く困らない村だった

が、しかしながら贅沢な暮らしには無縁だった。

 

そんな幼い頃の夏のある日、町に出かけた祖母が私に海水帽を買って来てくれた。

今時のものと比べると想像もつかない海水帽だが、あの頃村では他に誰も持っていない

最高のお土産だった。それはビニールの生地のようではあったが、柔らかでもないし

しっとりでも無いシャカシャカ音のする手触りのビニール製だった。

 

半透明の生地に可愛いピンク色の水玉模様があって、あごの所で結べるようにひもがつ

いていた。

きっと私は大喜びしたはずで、海に浸かるつもりで祖母に連れられ浜辺へ降りて

行ったのだろう。(この辺りは記憶の映像が浮かんでこない)

 

鮮明に脳裏に浮かんで来るのは、この後の場面である。

 

小さい私は水着代わりの下着を着て、嬉しい嬉しい海水帽を被り、波打ち際の

浅い場所で手をついて、寄せては返すさざ波に身を任せてはしゃいでいた。

祖母は少し離れた浜辺から、笑いながら私の様子を見て

「もうちょっと沖の方に下がって手を離してごらんよ、きっと泳げるから」と

何度も私をせかしたのだと思う。

そうこうしている時に、砂地から手が離れ水中に体が浮いた!!

 

この時から私は、海で泳げるようになったのだった。

 

泳ぎの大好きな娘になり、中学生になるころには、海女さんみたいに

深い海に潜ってサザエとか三角ミナ(貝の名前)も採れる位だった。

 

あれから ン十年・・・多分五十代の夏に帰省した折に、無性に泳ぎたくなり

人気のない海岸へ行き秘かに潜ってみた。

ところがどっこい、も、も、潜れない!?。1メートル程潜っても途中から

プカリと浮かんでしまう!  何度やっても同じだった。どゆこと??

夫君に話したら、受けまくって大笑いされた。

 

色々考察してみたが、おそらくわが身が太りすぎて浮力が付きすぎたか。

ものすごいショックな経験で、しばらく納得できなかった。

 

 

 

今年は おサレなお店でおサレな紅茶とケーキを おサレに頂いてみたい。(人吉市 くらカフェにて)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和のあの頃 故郷では

夏休みの楽しみ

 

もう遥か昔、小学生だったころの夏休み。昭和三十年代の頃の話。

ここに書ききれない位の沢山の想い出が、故郷の海や山河の風景と共に脳裏に浮かぶ。

一つ思い出すとまた一つ、次々浮かんでくる思い出たちが何とも言えない懐かしい感情

を引き起こす。

 

そして思い出の中の人々は、当然ながらその時の姿で思い出される。

細かい所は勿論思い出せるはずもないが、心に残る在りし日の出来事はどういう訳か

映像でくっきりと浮かんでくる。

 

あれは確かに小学生時代の夏休みだった。

私は従姉妹たちと遊ぶことが多かったので、夏休みも一緒に勉強したり遊んだり

それが一番楽しかった。

 

ある日祖母が、私を含めた三人の孫娘に、畑で勉強しながらメロンやスイカの番をして

くれないかと言った。

祖母はメロンやスイカも畑で作っていて、それを山のお猿さんが見つけたら食べられ

てしまうと言うのだった。

その畑は村から歩いて子供の足だと二十分位の場所に有ったが、畑の近くの山で時々

お猿さんを見かけることがあったらしく、もしもお猿が祖母のメロンを見つけたら

ひとたまりもないだろう。そうなると祖母のメロンは毎年被害をこうむることになる。

 

祖母はメロンを毎年作っていて、周りにも良くお裾分けして喜ばれていた。

家族たちにもこのメロンは甘いあまいご馳走だった。

メロンと言っても、今どきスーパーにあるような立派なものでは無く、大きい物でも

直径十センチ程の白っぽくて丸いメロンと、縦長で黄色い瓜の二種類だった。

イカも少しだけ、普通のスイカと中身が黄色の小玉スイカの二種類を作っていた。

その頃は、冷蔵庫などどの家にも無い時代だったので、スイカは川で冷やすか

水道水に浸けて冷やした。

 

三人の孫娘は、おばあちゃんの申し入れを喜んで引き受けた。

夏休みの友」と勉強道具をかかえて、ガヤガヤと畑へいくと、メロンの植えてある

一角に陣取る。蝉の声が四方八方から降り注ぐ山の中の広い畑にはズズズイッと

さつま芋が植えてあった。

 

雑草が短く刈り込んである場所に、シュロの木が数本植えてあり、日陰もあったので

真夏と言っても暑さはしのげた。それにあの頃は今ほど猛暑では無かった気がする。

むしろ、山の谷間にある畑ではそよ風がふくと心地よかったのではなかろうか。

 

前もって祖母が厚手のムシロと、四角い空の石油缶を準備してあった。

空の石油缶を何に使うのかって?

聞いて驚くなかれ、缶を木の枝でガンガンたたくと、お猿が怖がって近寄れないのだ。

私達はムシロに座って夏休みの宿題をしたり時間を空けては交代で、石油缶をガンガン

鳴らした。夏休みの間に何回位畑に行ったか覚えていないが、あの原始的な作業で

効果があってか無くてか、おばあちゃんのメロン畑はその後も無事だった。

 

私達孫娘は夏休みの宿題をやりながら、おばあちゃんの手助けもしていたのである。

そして、このお手伝いにはメロン食べ放題がおまけに付いていた。

畑の脇に、鍬だの鎌だのの農機具を置いてある場所があるので、私達はカマを

器用に使ってメロンの皮をむいた。ちびっ子なのにさすが百姓の娘っ子たちよ、

カマを扱うなど、小学生と言えども手慣れたものだった。

メロンは、きれいにむけてはいないが、丸ごとかぶりつきだった。

 

想い出のあの畑は、今はもう周りの山々と一体化してしまっていて、草木が生い茂り

畑の入り口すら解らない。山の周辺にはアスファルトの立派な道路が造られ

町や村をつなぐ交通網となっている。

便利にはなったが、昭和のあの頃の暮らしはここ半世紀あまりの間に人々の記憶から

ことごとく消え去ろうとしている。

 

山のお猿達は近頃は遠慮なく村の中までやってきて、遊んでいるらしい。

昨年里帰りした時、わが家の屋根と空き家になった後ろの家の屋根を、行ったり来たり

している2~3匹のお猿達を目撃して少々ショックだった。

 

春のベランダは花たちで満員御礼 洗濯物干場が半分になる



 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つるバラ達の冬日記

剪定と誘引作業と土の入れ替え

 

ここしばらくブログをお休みしてしまった。

バラ達のお世話をしないと、時期を逸してしまうのでこの季節の外せない作業を優先し

た為にブログの方に気が向かなかった。

 

わが家は生活の場が2階なので、ベランダ部分で鉢植えでバラも育てている。

1階にも地植えで数本あるが、お世話が行き届かない。

 

葉っぱを全て落とし、不要な枝を剪定し、新しい土と入れ替える。

つるバラはけっこうな大鉢に植えてあるので、私の力では動かせない。

今年土替えが必要なのは7鉢のうち3鉢だけ。私は大体3年に1度しか土替え作業はし

ない。時間と体力をけっこう使う。もう高齢なので、無理せず1日一鉢と決めて作業す

る。

土替えが終わった後は、春に咲く姿を想像しながら誘引作業をして

今の季節の一連の作業が終わる。

 

1,鉢回りの古土を取り出す 休眠期だから細根は切れても大丈夫

 

2、新しい土を入れてからお水をタップリと

 

【土替え作業のまとめ】

★★★★★ 動かせないほどの大鉢の場合  

    1、 周りの古い土を出来るだけ取り出して

    2、 新しい土に肥料を少々混ぜて入れ替える

    細根が多少切れるけど今の季節のバラは休眠期なので、全然大丈夫。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

 

今日の作業のつるバラはフランソワ・ジュランビルでした 
五月にはこんなに可愛いバラがあふれるように咲きます  ▼

 

バラたちは今の時期に必要なお世話をすれば、春には素晴らしい景色を見せてくれる。その時を楽しみに、もう少しの間がんばるっちゃー。

 

ふるさとの話その11  楽しみな椎の実拾い

 

 

秋の楽しみは、何と言っても椎の実拾いだったと思う。

 

小学生から中学生まで男子は殆ど行かなかったが、主に女子達の

楽しみだったと記憶する。

学校は隣の集落にあったので、何人かで一緒に下校する時がそのお楽しみの時間だった。

村の手前の峠を超える左側に椎の木が群生している山があり、九月か十月になると

熟した椎の実が、ドングリのように落下する。

 

その時期には誰からとも無く、行こうか?うん、行こう行こう!と即決即断で

まとまり、ランドセルを道路わきの藪の中に隠して、空になった弁当箱を手に

山へ入る。そうすると誰か声がして、近付くと下級生たちの先客だったりする。

そして、みんなでワイワイがやがやと椎の実拾いになる。

 

しいの木が大きくて数も多いので、落ちてる椎の実もザックザクである。

落ち葉を右手でかき分けながらおしゃべりしながら、収穫に余念がない。

空の弁当箱に入りきらないので、ある限りの服のポケットに詰め込んだものだった。

 

椎の実はドングリの三分の一か四分の一しかない大きさだが、味が全く違って

美味しい木の実である。

フライパンで乾煎りすると、香ばしくて栗のような味になる。歯で嚙んで殻を割って食する。

その頃は、おやつなど無かった時代なので、これはおやつ代わりにもなった。

母親に煎ってもらった椎の実をポケットに入れ、遊びながらポリポリと

食べていたのを思い出す。

 

しいの木山はもう一か所あり、村の川を数キロさかのぼった場所の川べりに

大きな椎の木がたくさん生えていた。椎の実は川の水中にも落ちていて浅い流れの

溜まり場にたくさん固まっているので、両手ですくって拾うことが出来る位だった。

 

そこは村から遠い場所だったので、

子供だけで行く事はなかったが、誰か大人となら大丈夫だった。焚き木採りに

私は、祖母に2~3度つれて行ってもらったかも知れない。

 

子供達が椎の実拾いに行く時は、親たちは心配して「まむしが居るから用心するよう

に」と注意喚起するけれど、マムシに咬まれた経験がない本人たちは

うわの空で聞き流す。実際に誰か大人がマムシに咬まれて村じゅうの話題に

なった事もあった。足を咬まれたら、強烈な痛みとともに脚に毒が回り

パンパンに腫れ上がる。心臓に毒が回らないように止血のためにタオルなどで足を縛

り、大至急病院に連絡して運んで貰わねばならない。命にかかわるのである。

 

私は、あれだけ野山が好きで、色んな所に行って山野を駆け回ったけれど

幸いなことに、そういう被害には一度もあったことは無かった。

ただしヘビは何度も見かけたし、マムシも一度だけ見たことがある。

マムシは猛毒を持っていてみんな怖いけれど、見つけたら逃がさずに何とかして

退治する。次に誰かがもし咬まれたら、大変なことになるからだ。

 

思うに、彼らだって人間がこわくて、出来る事なら遭遇したく無いに違いない。

 

 

種まきで育てた 蔓小桜 (つるこざくら)
本名はサポナリア・オキシモイデス だそうですが
ツルコザクラ、 の方が可愛いね。