昭和のあの頃 故郷では

夏休みの楽しみ

 

もう遥か昔、小学生だったころの夏休み。昭和三十年代の頃の話。

ここに書ききれない位の沢山の想い出が、故郷の海や山河の風景と共に脳裏に浮かぶ。

一つ思い出すとまた一つ、次々浮かんでくる思い出たちが何とも言えない懐かしい感情

を引き起こす。

 

そして思い出の中の人々は、当然ながらその時の姿で思い出される。

細かい所は勿論思い出せるはずもないが、心に残る在りし日の出来事はどういう訳か

映像でくっきりと浮かんでくる。

 

あれは確かに小学生時代の夏休みだった。

私は従姉妹たちと遊ぶことが多かったので、夏休みも一緒に勉強したり遊んだり

それが一番楽しかった。

 

ある日祖母が、私を含めた三人の孫娘に、畑で勉強しながらメロンやスイカの番をして

くれないかと言った。

祖母はメロンやスイカも畑で作っていて、それを山のお猿さんが見つけたら食べられ

てしまうと言うのだった。

その畑は村から歩いて子供の足だと二十分位の場所に有ったが、畑の近くの山で時々

お猿さんを見かけることがあったらしく、もしもお猿が祖母のメロンを見つけたら

ひとたまりもないだろう。そうなると祖母のメロンは毎年被害をこうむることになる。

 

祖母はメロンを毎年作っていて、周りにも良くお裾分けして喜ばれていた。

家族たちにもこのメロンは甘いあまいご馳走だった。

メロンと言っても、今どきスーパーにあるような立派なものでは無く、大きい物でも

直径十センチ程の白っぽくて丸いメロンと、縦長で黄色い瓜の二種類だった。

イカも少しだけ、普通のスイカと中身が黄色の小玉スイカの二種類を作っていた。

その頃は、冷蔵庫などどの家にも無い時代だったので、スイカは川で冷やすか

水道水に浸けて冷やした。

 

三人の孫娘は、おばあちゃんの申し入れを喜んで引き受けた。

夏休みの友」と勉強道具をかかえて、ガヤガヤと畑へいくと、メロンの植えてある

一角に陣取る。蝉の声が四方八方から降り注ぐ山の中の広い畑にはズズズイッと

さつま芋が植えてあった。

 

雑草が短く刈り込んである場所に、シュロの木が数本植えてあり、日陰もあったので

真夏と言っても暑さはしのげた。それにあの頃は今ほど猛暑では無かった気がする。

むしろ、山の谷間にある畑ではそよ風がふくと心地よかったのではなかろうか。

 

前もって祖母が厚手のムシロと、四角い空の石油缶を準備してあった。

空の石油缶を何に使うのかって?

聞いて驚くなかれ、缶を木の枝でガンガンたたくと、お猿が怖がって近寄れないのだ。

私達はムシロに座って夏休みの宿題をしたり時間を空けては交代で、石油缶をガンガン

鳴らした。夏休みの間に何回位畑に行ったか覚えていないが、あの原始的な作業で

効果があってか無くてか、おばあちゃんのメロン畑はその後も無事だった。

 

私達孫娘は夏休みの宿題をやりながら、おばあちゃんの手助けもしていたのである。

そして、このお手伝いにはメロン食べ放題がおまけに付いていた。

畑の脇に、鍬だの鎌だのの農機具を置いてある場所があるので、私達はカマを

器用に使ってメロンの皮をむいた。ちびっ子なのにさすが百姓の娘っ子たちよ、

カマを扱うなど、小学生と言えども手慣れたものだった。

メロンは、きれいにむけてはいないが、丸ごとかぶりつきだった。

 

想い出のあの畑は、今はもう周りの山々と一体化してしまっていて、草木が生い茂り

畑の入り口すら解らない。山の周辺にはアスファルトの立派な道路が造られ

町や村をつなぐ交通網となっている。

便利にはなったが、昭和のあの頃の暮らしはここ半世紀あまりの間に人々の記憶から

ことごとく消え去ろうとしている。

 

山のお猿達は近頃は遠慮なく村の中までやってきて、遊んでいるらしい。

昨年里帰りした時、わが家の屋根と空き家になった後ろの家の屋根を、行ったり来たり

している2~3匹のお猿達を目撃して少々ショックだった。

 

春のベランダは花たちで満員御礼 洗濯物干場が半分になる